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長尾に別れの挨拶をしなかった日

駐輪場の階段を上った先、丁度五組の自転車が置かれている場所に誰かがいた。

この中途半端な時間帯にほかの部活の人間がここにいる可能性は低いから、同じ吹奏楽の人間だとみて間違いない。

誰だろうか、もしかしたらあの人がいる場所は五組の自転車置き場ではなくて前後の四組、六組の自転車置き場なのかもしれない、などと考えていると、向こうから声がかかってきた。

「あ、いっちゃん」

長尾だった。

返事はしなかった。

そういう気分じゃなかった、というものとは違う。

返事をする気になれないほど長尾を嫌っているわけではない。むしろ女子の中では彼女であるひなちゃんに次いで二番目に好きだ。

どうしてあの時、返事をしなかったのかはわからない。

突然現れた同級生との空気を持たすべく、長尾は

「寒いね今日は」

とか何とか言っていったが俺はそれも無視した。

自分自身の自転車を探していたということもある。

自転車が見つかり、スタンドをけると丁度長尾も跨がって駐輪場を出ようとしているところだった。

長いスロープを自転車を押して下りていく長尾の後姿についていく。

適切な間をとって、ゆっくりと、彼女に合わせて。

長尾がスロープを降り終わったら一気に加速して間をすり抜けていく。

去り際にも何も言わなかった。

長尾の方も何も言っていなかった。

一緒に帰ってほしかった、だなんてことは絶対にない。

実際、何度か一緒に帰ったことはあるのだけれど。

川辺橋を走っている間中、長尾のことを考えていた。

同時にあの時返事を返さなかった理由も。

信号に引っかかった。

後ろから、自転車が近づいてくるのがわかった。

きっと長尾だ。

校門から出て距離を離したとはいえ、こちらが止まっていれば向こうはいつか近づいてくる。

ましてやここの信号は長いことで有名だ。

俺はその時ほんの少しだけ、長尾がもう一度俺に何かの言葉をかけてくれるんじゃないかと期待していた。

 

そんなことはなかった。

 

長尾が通り過ぎた後すぐに、信号は青になった。

心の中は言い表せられない。

何か、悲しみや怒りとは違った別な感情が渦巻いている。

興奮といってもいいぐらいだ。

きっと、俺は長尾だけでなくて自分にも素直になれないんだ。

天邪鬼に生きようとしているわけではない。

きっと、自分の中の何かサディスティックな部分が、無意識的に感情の表面に現れて消えていく現象なんだろう。

あの時は、本当は長尾に返事がしたかった。だけど、素直になれずに別れの言葉を言わなかった。

気分がよくなったわけじゃない。

どうせ、家に帰ってゲームをしている時には忘れてしまうだろうこの気持ち。

忘れた方がいい感情だ。

だけどどうしてか、この心情を心地よいと感じたのはなぜだろうか。

 

それを理解するには、まだ俺の人生経験は浅いみたいだ。

 

 

最後に、長尾。

無視してごめんな。

こんな気持ちになっていないときはなるべく返事返すから、お前も積極的に俺に話しかけてね。

俺はお前と話す時が楽しい。

笑ってくれるから。